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二宮和也主演で、西島秀俊、綾野 剛、宮﨑あおい、竹野内 豊と豪華な俳優陣で贈られる感動作
予告編
『ラストレシピ〜麒麟の舌の記憶〜』をVODで観るには
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レビュー:料理映画として『ラストレシピ〜麒麟の舌の記憶〜』を観ると
料理映画として観るか、歴史サスペンスとして観るか、ファミリードラマとして観るか。
こういった要素を紡いでいくことで、物語として厚みを持たせようとした映画だと思います。
2時間、ポーっと観ている分には悪くはないです。
悪くはないんだけど、突き詰めるなら、料理も歴史も家族愛も、どれにしても少し踏み込みが浅くて、消化不良というのが正直な印象でしょう。
ストーリーのスケールの大きさが魅力的で、冒頭はひきつけられていったのですが、その種を明かしていく収束の仕方が、設定の大きさに追い付いていないところが惜しいところです。
私感では、これは悲劇にしかなりようがないと思いながら、観進めていったのですが、感動ストーリーに落とし込もうとしているところに無理があったのかな?とは思います。
それは、歴史やファミリードラマとしての側面ですが、料理視点で見てみたところでも、ツボは抑えているのだけど、抜けきらないような曖昧さを感じます。
でも、その曖昧さが、現実のグルメシーンの問題点とリンクしているような気もするので、そのことについて書いてみたいと思います。
うがった見方で意図的ではないでしょうが、これをあえてやっていたなら、きわめて批評性の高い作品のような気がしなくもありません。
料理映画として『ラストレシピ〜麒麟の舌の記憶〜』を観ると
原作は、あの「料理の鉄人」の演出を手掛けたテレビマンを経て、小説家として活動している田中経一さん。
ストーリーは、天才的な味覚の持ち主ではあるものの、最初はただのゴロツキだった主人公・佐々木充(二宮和也)が、幻のメニューを追ううちに家族愛に目覚めてゆくというもの。
かつての満州国の料理人・山形直太朗(西島秀俊)が考えて作り上げた、その幻のメニュー「大日本帝国食菜全席」をめぐってストーリーが進んでいきます。
そういったストーリーのなかで、当ページででピックアップしたいテーマは2つです。
- 世界最高峰の料理(「大日本帝国食菜全席」)とは可能なのか
- 料理は、愛なのか、表現なのか
現在の料理人が、ずっと考え続けている課題なんですが、それが本作を評価する際にも鍵になってくると思います。
① 世界最高峰の料理って可能なの?
現代と過去が交互の織り交ぜられる進行で、過去の舞台は1930年代の満州という設定。
満州国ハルビン関東軍司令部の大佐である三宅太蔵(竹野内豊)は、満州国の威信を諸外国に示すため、宮廷料理人だった山形直太朗を招き、「大日本帝国食菜全席」の作成を命じることで、ストーリーが動き始めます。
「大日本帝国食菜全席」とは、ルイ王朝のフランス料理や、清王朝の満漢全席が世界的に知られているけれども、それらを遥かに凌駕する世界史に名を刻むことを目指すレシピのことだとか。
山形がたどり着いたスタイルが、和食と中華、ロシア料理をはじめ世界の料理を融合したもので、それは民族の融和を表している、と。
日本の威信を示すなら、日本料理の高級化・発展形でいいわけなのですが、大東亜文化圏の象徴・満州だってことでしょう。
で、気になるのは、出てくる料理が、「鮎の揚げ春巻き」「キャビアとそうめんの天の川雨」「すっぽんのコンソメルーブル」など、現在でいえば、フュージョン料理ようなスタイルだということ。
ちょっと気になるレシピもありますが、フュージョンが世界最高峰の料理だと言われると、ちょっとモヤモヤしてしまいます。
だって、フュージョンって、かけ合わせじゃないですが。
極論すれば、和洋折衷のビュッフェがもっともすぐれているってことと変わりないような気がしてしまいます。
やはり世界最高峰のレシピを新たにつくるっていう設定の物語を実写でやるのは、かなりハードルが高いと思います。
料理は愛情か?
山形も当初は華美なプレゼンテーションを追求していたのですが、妻の不慮の死をきっかけに、家庭的なやさしい料理に意識が向いていきます。
かつて山形直太朗と親交があったロシア人の孫から、料理は愛情だと気づかされたというのエピソードを聞いて、主人公は、「料理は愛情ですか?」と嘲笑します。
「才能のないやつが、家族の温かさみたいな、すぐ言い訳をするんですよ。何かを犠牲にして、孤独になって、自分をとことん追い込んで初めてできるもんだと、僕は思いますけどね。その本物ってやつは」
この言葉にドキッとしたのです。
孤独になって、追い込んでできた本物に、そっちの方が面白くない? 食べてみたいと、そそられたんです。
この「愛情か表現か」みたいな話は、ガストロノミーあるあるみたいなものなので、こういったセリフを挟み込んでくるところに、作家の飲食業界に対する現場感はうかがえるのですが、この作品では、主人公が最終的にこの考え方を、自ら否定し、家族の温かさ、家族愛のほうに振れていきます。
作品に対するもやもや感は、この展開にあります。
「料理は愛情」というのも一つの真理ではあるのですが、反対にある表現が否定しなくてもいいわけです。
そもそも二項対立じゃなくちゃ、二者択一じゃなくちゃいけないの?と。
どっちのスタンスもあってよくて、その到達点にどう達しているかが重要なはずですが、料理は愛情だというほうにしか感動がないという押し付けには抵抗感があります。
逆説的にダイバーシティな現代に喜びを感じる映画
歴史ものではあるので、ここに表現された料理のディテールに、製作者がどれだけ信じているかはわかりませんが、現在私は、ダイバーシティの観点から料理も見ていることに改めて気づかされました。
日本料理と中国料理、フランス料理のどれが優れているかを考えることさえしなくなりましたし、そもそもその境目がわかりません。
例えば、キムチを除けば、韓国の宮廷料理と和食はかなり似ているように、そもそも食文化が国境線できちんと分かれるなんてことはないので、国名がついた○○料理なんて便宜的なものでしかありません。
愛情と表現が別々でもいいですし、ハイブリッドであってもいいと思います。
どっちもあっていいじゃんという、立場としての多様性を信じたい。
そんなことを逆説的に思い出させてくれた映画ではありました。